昭和44年7月15日 夜の御理解 【入力者:岡村和一郎】
(信者期間?)を、1時のご祈念に出られて、その後に頂きます、教典の解釈を頂いておりますが、実に感銘に、しかもそのみ教えの性根とでもいうんでしょうかね、その核心に、にと思われるところを短い言葉で頂いておるわけですけれども、ほんとにあの、えー(?)出してしまうだけ、ただ書き写すとだけじゃなくて、やっぱそういう、あの分かっていかなきゃいけないと思うですね。
私、今日の教典なんか、あれは頂きよってから、ほんと思わして頂くことはですね、例えば、「神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさ」とこう。それに対して、初めて聞いた神の教え、初めて知った真の道。信心のなかった昔のことが悔やまれる。現在、道によって助かり、歓喜の生活があり、私がある。この喜びが、まだ、まだ知らぬ人達の上に願われるおかげを頂いた時、初めてこのみ教えが分かったと言えようというのですね。
ですから、私、この、私どもその長年信心さして頂いてるけども、果たしてこのみ教えは分かっておるだろうかと。短いね、これだけのことですけれども。はああ、私達は信心さして頂くようになったから、神様に、(はああ?)と、哀れな氏子だとは思われていないか(けど?)。
だから、えーん、信心しておっても、まだ、あー、教えは頂いても自分のものにならん、真の道を教えてもろうても、真の道を踏まないとするなら、やはり天地の親神様は、「哀れなものじゃ」というだけではなくて、むしろ歯痒さを感じておられるようなことはなかろうかと思うんですね。
ですからあの、このーみ教えの性根というかね、神髄になるところをよーく分からして頂かなければならんと思うんですけれども。しかもその、おー、あはー、あー現在(みつい?)によって助かり、歓喜の生活があり、そして私があると。そういう喜びをまだ知らぬ人に伝えていく、というところまでいって、初めてこのみ教えが分かったという、言うておられるんですからね。
いよいよ、そのー教えを自分のものに頂いていかなければならない、いわゆる教えを対しての生活でなからなならんということを、いよいよ感じさしてもらいますですね。どうぞ。